わたしがBesayを始めた理由(未完です)


エピソード1、サチのこと

わたしが心理職を目指そうと思ったきっかけは、妹のように思っていた親友のサチがきっかけでした。

サチはわたしが大阪に住んでいたころに知り合った、少し年下の可愛い女の子です。

当時のわたしはとにかくお金を稼ぎたくて、朝は駅の喫茶店、昼間は化粧品販売、夜は水商売・・と三足の草鞋。さらに休日の前日はクラブ勤めが終わった後に、朝5時まで営業しているスナックでバイトして始発で帰り、時々休日に写真モデルのバイトをするなど、働きづくめの生活をしていました。

当時、わたしは心の底ではお金しか信用できなくて、今後お金に困る事がないようにしたいと、そればかり考えていました。本心では笑わず、他人を信用せず、自分の殻を被ったまま、その殻の割れ目から周囲を見渡して、周囲から期待される自分を演出するような性格で、まったく自己一致していない状態でした。

もちろんそうなるにはそれなりの訳があって、非常に傷ついて臆病になっていたのですが。

働き過ぎて過呼吸になったり、高熱で倒れたりして、結局わたしはその後沖縄へ移住することになりました。そんな中、ひっそりと出会って親しくなったサチは、同郷で同じ大阪に住んでいて、唯一本音を明かせる同性でした。

真面目で華奢で、人懐っこくて繊細なサチ。いまでもよく思いだします。

そんな彼女が摂食障害だったことに、わたしは微塵も気付く事はありませんでした。いつもわたしの前では、良く食べて良く笑い、わたしを気遣って優しい言葉をかけてくれていたのです。サチ自身が苦しんでいた事を、最後までわたしには告げませんでした。

沖縄へ移住することを決めて、いつものようにサチに会ってそのことを話そうと連絡したら、サチは「実は入院中でして・・」と照れくさそうに言いました。どんな病気でどれくらい入院するのか訊ねましたが、結局彼女は何も答えず、わたしはそれがとても寂しく、突き放されたように感じて、結局最後に彼女と会えませんでした。

それでも時々メールをしたり電話で喋ったりで、サチとの友情は続いていました。

翌年のクリスマス、いつものように「メリークリスマス!」とサチにメールをしたら、サチのお母さんからお返事をいただき、サチがクリスマスの数日前に亡くなった事を知りました。

信じられませんでした。

泣く事も出来ませんでした。

後にサチのお宅にお伺いして、サチが長い間、摂食障害で苦しんで来た事を知りました。

サチはご両親にわたしのことをたくさん話していたようで、サチのお母さんから「出会ってから短いおつきあいなのに、こんなに親しくしていただいてありがとう」と言われ、初めてわたしも泣きました。

わたしはサチのことを、なにも知らずに親友だと思っていて、サチは自分も支えきれないほど辛いのに、いつもわたしを気遣り、励ましてくれました。

彼女は健康なわたしに、自分を投影していたようです。

闘病中は、元気になって沖縄に行って、わたしに会うのを目標にしていたと聞きました。

わたしより年下で、華奢で小さなサチが、どれほどの気持ちを込めて応援してくれていたのかを、その時初めて知りました。わたしは、沖縄へ行く前になぜサチに会わなかったのか、入院していると聞いて、どうして摂食障害だと気付いてあげられなかったのか・・後悔していました。今でも悔やんでいます。

その後、沖縄でとてもお世話になった人が、やはり食が原因の病気で亡くなり、わたしは細々とヘルシー弁当店を始めました。

食べる事が障害となってしまう人が、安心して適量食べられる食事を届けることに、使命感を感じていました。弁当店を始めた事はその時わたしにできる精一杯のサチへの恩返しだと思っていたので、弁当メニューに他の弁当より更に低カロリーで野菜メインの「サチ弁当」を作ったほどです。

弁当店はそれなりに繁盛しましたが、時間が経つにつれてわたしの中で「これだけでいいのかな」という気持ちが大きくなりました。安心して食べられるものを作る事と届ける事はできるけど、これだけでいいのかな・・・と。

休みの日に、摂食障害について調べたり本を読んだりしているうちに、わたしは単純に食べ物を提供するだけでは物足りなくなってきたのかもしれません。食べる事は生きる事そのものです。それを否定する心理というものに、傾倒したのかもしれません。

縁あって現在の夫と知り合い、弁当店は譲渡して上京しました。

上京してからも弁当店は始められる、とは思っていましたが、なかなか弁当店を始める気にはなれませんでした。食べる事だけでは解決しない『心の問題』を、もっと知りたくなりました。それが、わたしが心理職に踏み込んだ最大の理由です。

ある方に、何気なく「何故今の仕事を選んだのですか?」と聞かれて、ふと「罪滅ぼしのような気持ちです」と答えてから、わたしはずっとサチのことを悔いていることを改めて感じていました。自分の中では随分整理されて『きっかけはサチかもしれないけれど、心理職に興味を持ったのだろう』と理性で思っていました。でも不意打ちに訊ねられて「罪滅ぼし」という言葉が口を突いて、わたしの中のサチの大きさを思い知ったという感じです。

わたしが心理職を目指そうと思ったきっかけは、妹のように思っていた親友のサチがきっかけでした。

サチはわたしが大阪に住んでいたころに知り合った、少し年下の可愛い女の子です。

当時のわたしはとにかくお金を稼ぎたくて、朝は駅の喫茶店、昼間は化粧品販売、夜は水商売・・と三足の草鞋。さらに休日の前日はクラブ勤めが終わった後に、朝5時まで営業しているスナックでバイトして始発で帰り、時々休日に写真モデルのバイトをするなど、働きづくめの生活をしていました。

当時、わたしは心の底ではお金しか信用できなくて、今後お金に困る事がないようにしたいと、そればかり考えていました。本心では笑わず、他人を信用せず、自分の殻を被ったまま、その殻の割れ目から周囲を見渡して、周囲から期待される自分を演出するような性格で、まったく自己一致していない状態でした。

もちろんそうなるにはそれなりの訳があって、非常に傷ついて臆病になっていたのですが。

働き過ぎて過呼吸になったり、高熱で倒れたりして、結局わたしはその後沖縄へ移住することになりました。そんな中、ひっそりと出会って親しくなったサチは、同郷で同じ大阪に住んでいて、唯一本音を明かせる同性でした。

真面目で華奢で、人懐っこくて繊細なサチ。いまでもよく思いだします。

そんな彼女が摂食障害だったことに、わたしは微塵も気付く事はありませんでした。いつもわたしの前では、良く食べて良く笑い、わたしを気遣って優しい言葉をかけてくれていたのです。サチ自身が苦しんでいた事を、最後までわたしには告げませんでした。

沖縄へ移住することを決めて、いつものようにサチに会ってそのことを話そうと連絡したら、サチは「実は入院中でして・・」と照れくさそうに言いました。どんな病気でどれくらい入院するのか訊ねましたが、結局彼女は何も答えず、わたしはそれがとても寂しく、突き放されたように感じて、結局最後に彼女と会えませんでした。

それでも時々メールをしたり電話で喋ったりで、サチとの友情は続いていました。

翌年のクリスマス、いつものように「メリークリスマス!」とサチにメールをしたら、サチのお母さんからお返事をいただき、サチがクリスマスの数日前に亡くなった事を知りました。

信じられませんでした。

泣く事も出来ませんでした。

後にサチのお宅にお伺いして、サチが長い間、摂食障害で苦しんで来た事を知りました。

サチはご両親にわたしのことをたくさん話していたようで、サチのお母さんから「出会ってから短いおつきあいなのに、こんなに親しくしていただいてありがとう」と言われ、初めてわたしも泣きました。

わたしはサチのことを、なにも知らずに親友だと思っていて、サチは自分も支えきれないほど辛いのに、いつもわたしを気遣り、励ましてくれました。

彼女は健康なわたしに、自分を投影していたようです。

闘病中は、元気になって沖縄に行って、わたしに会うのを目標にしていたと聞きました。

わたしより年下で、華奢で小さなサチが、どれほどの気持ちを込めて応援してくれていたのかを、その時初めて知りました。わたしは、沖縄へ行く前になぜサチに会わなかったのか、入院していると聞いて、どうして摂食障害だと気付いてあげられなかったのか・・後悔していました。今でも悔やんでいます。

その後、沖縄でとてもお世話になった人が、やはり食が原因の病気で亡くなり、わたしは細々とヘルシー弁当店を始めました。

食べる事が障害となってしまう人が、安心して適量食べられる食事を届けることに、使命感を感じていました。弁当店を始めた事はその時わたしにできる精一杯のサチへの恩返しだと思っていたので、弁当メニューに他の弁当より更に低カロリーで野菜メインの「サチ弁当」を作ったほどです。

弁当店はそれなりに繁盛しましたが、時間が経つにつれてわたしの中で「これだけでいいのかな」という気持ちが大きくなりました。安心して食べられるものを作る事と届ける事はできるけど、これだけでいいのかな・・・と。

休みの日に、摂食障害について調べたり本を読んだりしているうちに、わたしは単純に食べ物を提供するだけでは物足りなくなってきたのかもしれません。食べる事は生きる事そのものです。それを否定する心理というものに、傾倒したのかもしれません。

縁あって現在の夫と知り合い、弁当店は譲渡して上京しました。

上京してからも弁当店は始められる、とは思っていましたが、なかなか弁当店を始める気にはなれませんでした。食べる事だけでは解決しない『心の問題』を、もっと知りたくなりました。それが、わたしが心理職に踏み込んだ最大の理由です。

ある方に、何気なく「何故今の仕事を選んだのですか?」と聞かれて、ふと「罪滅ぼしのような気持ちです」と答えてから、わたしはずっとサチのことを悔いていることを改めて感じていました。自分の中では随分整理されて『きっかけはサチかもしれないけれど、心理職に興味を持ったのだろう』と理性で思っていました。でも不意打ちに訊ねられて「罪滅ぼし」という言葉が口を突いて、わたしの中のサチの大きさを思い知ったという感じです。

だからわたしは、食と心理を一緒に扱えるようなビジネススタイルを求めているのでしょう。わたしのなかで、食と心は繋がっていて、どちらも置きざりには出来ないと思っています。いつか、両方を扱える仕事をするのが、わたしの一番の夢です。わたしが心理職を目指そうと思ったきっかけは、妹のように思っていた親友のサチがきっかけでした。

サチはわたしが大阪に住んでいたころに知り合った、少し年下の可愛い女の子です。

当時のわたしはとにかくお金を稼ぎたくて、朝は駅の喫茶店、昼間は化粧品販売、夜は水商売・・と三足の草鞋。さらに休日の前日はクラブ勤めが終わった後に、朝5時まで営業しているスナックでバイトして始発で帰り、時々休日に写真モデルのバイトをするなど、働きづくめの生活をしていました。

当時、わたしは心の底ではお金しか信用できなくて、今後お金に困る事がないようにしたいと、そればかり考えていました。本心では笑わず、他人を信用せず、自分の殻を被ったまま、その殻の割れ目から周囲を見渡して、周囲から期待される自分を演出するような性格で、まったく自己一致していない状態でした。

もちろんそうなるにはそれなりの訳があって、非常に傷ついて臆病になっていたのですが。

働き過ぎて過呼吸になったり、高熱で倒れたりして、結局わたしはその後沖縄へ移住することになりました。そんな中、ひっそりと出会って親しくなったサチは、同郷で同じ大阪に住んでいて、唯一本音を明かせる同性でした。

真面目で華奢で、人懐っこくて繊細なサチ。いまでもよく思いだします。

そんな彼女が摂食障害だったことに、わたしは微塵も気付く事はありませんでした。いつもわたしの前では、良く食べて良く笑い、わたしを気遣って優しい言葉をかけてくれていたのです。サチ自身が苦しんでいた事を、最後までわたしには告げませんでした。

沖縄へ移住することを決めて、いつものようにサチに会ってそのことを話そうと連絡したら、サチは「実は入院中でして・・」と照れくさそうに言いました。どんな病気でどれくらい入院するのか訊ねましたが、結局彼女は何も答えず、わたしはそれがとても寂しく、突き放されたように感じて、結局最後に彼女と会えませんでした。

それでも時々メールをしたり電話で喋ったりで、サチとの友情は続いていました。

翌年のクリスマス、いつものように「メリークリスマス!」とサチにメールをしたら、サチのお母さんからお返事をいただき、サチがクリスマスの数日前に亡くなった事を知りました。

信じられませんでした。

泣く事も出来ませんでした。

後にサチのお宅にお伺いして、サチが長い間、摂食障害で苦しんで来た事を知りました。

サチはご両親にわたしのことをたくさん話していたようで、サチのお母さんから「出会ってから短いおつきあいなのに、こんなに親しくしていただいてありがとう」と言われ、初めてわたしも泣きました。

わたしはサチのことを、なにも知らずに親友だと思っていて、サチは自分も支えきれないほど辛いのに、いつもわたしを気遣り、励ましてくれました。

彼女は健康なわたしに、自分を投影していたようです。

闘病中は、元気になって沖縄に行って、わたしに会うのを目標にしていたと聞きました。

わたしより年下で、華奢で小さなサチが、どれほどの気持ちを込めて応援してくれていたのかを、その時初めて知りました。わたしは、沖縄へ行く前になぜサチに会わなかったのか、入院していると聞いて、どうして摂食障害だと気付いてあげられなかったのか・・後悔していました。今でも悔やんでいます。

その後、沖縄でとてもお世話になった人が、やはり食が原因の病気で亡くなり、わたしは細々とヘルシー弁当店を始めました。

食べる事が障害となってしまう人が、安心して適量食べられる食事を届けることに、使命感を感じていました。弁当店を始めた事はその時わたしにできる精一杯のサチへの恩返しだと思っていたので、弁当メニューに他の弁当より更に低カロリーで野菜メインの「サチ弁当」を作ったほどです。

弁当店はそれなりに繁盛しましたが、時間が経つにつれてわたしの中で「これだけでいいのかな」という気持ちが大きくなりました。安心して食べられるものを作る事と届ける事はできるけど、これだけでいいのかな・・・と。

休みの日に、摂食障害について調べたり本を読んだりしているうちに、わたしは単純に食べ物を提供するだけでは物足りなくなってきたのかもしれません。食べる事は生きる事そのものです。それを否定する心理というものに、傾倒したのかもしれません。

縁あって現在の夫と知り合い、弁当店は譲渡して上京しました。

上京してからも弁当店は始められる、とは思っていましたが、なかなか弁当店を始める気にはなれませんでした。食べる事だけでは解決しない『心の問題』を、もっと知りたくなりました。それが、わたしが心理職に踏み込んだ最大の理由です。

ある方に、何気なく「何故今の仕事を選んだのですか?」と聞かれて、ふと「罪滅ぼしのような気持ちです」と答えてから、わたしはずっとサチのことを悔いていることを改めて感じていました。自分の中では随分整理されて『きっかけはサチかもしれないけれど、心理職に興味を持ったのだろう』と理性で思っていました。でも不意打ちに訊ねられて「罪滅ぼし」という言葉が口を突いて、わたしの中のサチの大きさを思い知ったという感じです。

だからわたしは、食と心理を一緒に扱えるようなビジネススタイルを求めているのでしょう。わたしのなかで、食と心は繋がっていて、どちらも置きざりには出来ないと思っています。いつか、両方を扱える仕事をするのが、わたしの一番の夢です。わたしが心理職を目指そうと思ったきっかけは、妹のように思っていた親友のサチがきっかけでした。

サチはわたしが大阪に住んでいたころに知り合った、少し年下の可愛い女の子です。

当時のわたしはとにかくお金を稼ぎたくて、朝は駅の喫茶店、昼間は化粧品販売、夜は水商売・・と三足の草鞋。さらに休日の前日はクラブ勤めが終わった後に、朝5時まで営業しているスナックでバイトして始発で帰り、時々休日に写真モデルのバイトをするなど、働きづくめの生活をしていました。

当時、わたしは心の底ではお金しか信用できなくて、今後お金に困る事がないようにしたいと、そればかり考えていました。本心では笑わず、他人を信用せず、自分の殻を被ったまま、その殻の割れ目から周囲を見渡して、周囲から期待される自分を演出するような性格で、まったく自己一致していない状態でした。

もちろんそうなるにはそれなりの訳があって、非常に傷ついて臆病になっていたのですが。

働き過ぎて過呼吸になったり、高熱で倒れたりして、結局わたしはその後沖縄へ移住することになりました。そんな中、ひっそりと出会って親しくなったサチは、同郷で同じ大阪に住んでいて、唯一本音を明かせる同性でした。

真面目で華奢で、人懐っこくて繊細なサチ。いまでもよく思いだします。

そんな彼女が摂食障害だったことに、わたしは微塵も気付く事はありませんでした。いつもわたしの前では、良く食べて良く笑い、わたしを気遣って優しい言葉をかけてくれていたのです。サチ自身が苦しんでいた事を、最後までわたしには告げませんでした。

沖縄へ移住することを決めて、いつものようにサチに会ってそのことを話そうと連絡したら、サチは「実は入院中でして・・」と照れくさそうに言いました。どんな病気でどれくらい入院するのか訊ねましたが、結局彼女は何も答えず、わたしはそれがとても寂しく、突き放されたように感じて、結局最後に彼女と会えませんでした。

それでも時々メールをしたり電話で喋ったりで、サチとの友情は続いていました。

翌年のクリスマス、いつものように「メリークリスマス!」とサチにメールをしたら、サチのお母さんからお返事をいただき、サチがクリスマスの数日前に亡くなった事を知りました。

信じられませんでした。

泣く事も出来ませんでした。

後にサチのお宅にお伺いして、サチが長い間、摂食障害で苦しんで来た事を知りました。

サチはご両親にわたしのことをたくさん話していたようで、サチのお母さんから「出会ってから短いおつきあいなのに、こんなに親しくしていただいてありがとう」と言われ、初めてわたしも泣きました。

わたしはサチのことを、なにも知らずに親友だと思っていて、サチは自分も支えきれないほど辛いのに、いつもわたしを気遣り、励ましてくれました。

彼女は健康なわたしに、自分を投影していたようです。

闘病中は、元気になって沖縄に行って、わたしに会うのを目標にしていたと聞きました。

わたしより年下で、華奢で小さなサチが、どれほどの気持ちを込めて応援してくれていたのかを、その時初めて知りました。わたしは、沖縄へ行く前になぜサチに会わなかったのか、入院していると聞いて、どうして摂食障害だと気付いてあげられなかったのか・・後悔していました。今でも悔やんでいます。

その後、沖縄でとてもお世話になった人が、やはり食が原因の病気で亡くなり、わたしは細々とヘルシー弁当店を始めました。

食べる事が障害となってしまう人が、安心して適量食べられる食事を届けることに、使命感を感じていました。弁当店を始めた事はその時わたしにできる精一杯のサチへの恩返しだと思っていたので、弁当メニューに他の弁当より更に低カロリーで野菜メインの「サチ弁当」を作ったほどです。

弁当店はそれなりに繁盛しましたが、時間が経つにつれてわたしの中で「これだけでいいのかな」という気持ちが大きくなりました。安心して食べられるものを作る事と届ける事はできるけど、これだけでいいのかな・・・と。

休みの日に、摂食障害について調べたり本を読んだりしているうちに、わたしは単純に食べ物を提供するだけでは物足りなくなってきたのかもしれません。食べる事は生きる事そのものです。それを否定する心理というものに、傾倒したのかもしれません。

縁あって現在の夫と知り合い、弁当店は譲渡して上京しました。

上京してからも弁当店は始められる、とは思っていましたが、なかなか弁当店を始める気にはなれませんでした。食べる事だけでは解決しない『心の問題』を、もっと知りたくなりました。それが、わたしが心理職に踏み込んだ最大の理由です。

ある方に、何気なく「何故今の仕事を選んだのですか?」と聞かれて、ふと「罪滅ぼしのような気持ちです」と答えてから、わたしはずっとサチのことを悔いていることを改めて感じていました。自分の中では随分整理されて『きっかけはサチかもしれないけれど、心理職に興味を持ったのだろう』と理性で思っていました。でも不意打ちに訊ねられて「罪滅ぼし」という言葉が口を突いて、わたしの中のサチの大きさを思い知ったという感じです。

だからわたしは、食と心理を一緒に扱えるようなビジネススタイルを求めているのでしょう。わたしのなかで、食と心は繋がっていて、どちらも置きざりには出来ないと思っています。いつか、両方を扱える仕事をするのが、わたしの一番の夢です。わたしが心理職を目指そうと思ったきっかけは、妹のように思っていた親友のサチがきっかけでした。

サチはわたしが大阪に住んでいたころに知り合った、少し年下の可愛い女の子です。

当時のわたしはとにかくお金を稼ぎたくて、朝は駅の喫茶店、昼間は化粧品販売、夜は水商売・・と三足の草鞋。さらに休日の前日はクラブ勤めが終わった後に、朝5時まで営業しているスナックでバイトして始発で帰り、時々休日に写真モデルのバイトをするなど、働きづくめの生活をしていました。

当時、わたしは心の底ではお金しか信用できなくて、今後お金に困る事がないようにしたいと、そればかり考えていました。本心では笑わず、他人を信用せず、自分の殻を被ったまま、その殻の割れ目から周囲を見渡して、周囲から期待される自分を演出するような性格で、まったく自己一致していない状態でした。

もちろんそうなるにはそれなりの訳があって、非常に傷ついて臆病になっていたのですが。

働き過ぎて過呼吸になったり、高熱で倒れたりして、結局わたしはその後沖縄へ移住することになりました。そんな中、ひっそりと出会って親しくなったサチは、同郷で同じ大阪に住んでいて、唯一本音を明かせる同性でした。

真面目で華奢で、人懐っこくて繊細なサチ。いまでもよく思いだします。

そんな彼女が摂食障害だったことに、わたしは微塵も気付く事はありませんでした。いつもわたしの前では、良く食べて良く笑い、わたしを気遣って優しい言葉をかけてくれていたのです。サチ自身が苦しんでいた事を、最後までわたしには告げませんでした。

沖縄へ移住することを決めて、いつものようにサチに会ってそのことを話そうと連絡したら、サチは「実は入院中でして・・」と照れくさそうに言いました。どんな病気でどれくらい入院するのか訊ねましたが、結局彼女は何も答えず、わたしはそれがとても寂しく、突き放されたように感じて、結局最後に彼女と会えませんでした。

それでも時々メールをしたり電話で喋ったりで、サチとの友情は続いていました。

翌年のクリスマス、いつものように「メリークリスマス!」とサチにメールをしたら、サチのお母さんからお返事をいただき、サチがクリスマスの数日前に亡くなった事を知りました。

信じられませんでした。

泣く事も出来ませんでした。

後にサチのお宅にお伺いして、サチが長い間、摂食障害で苦しんで来た事を知りました。

サチはご両親にわたしのことをたくさん話していたようで、サチのお母さんから「出会ってから短いおつきあいなのに、こんなに親しくしていただいてありがとう」と言われ、初めてわたしも泣きました。

わたしはサチのことを、なにも知らずに親友だと思っていて、サチは自分も支えきれないほど辛いのに、いつもわたしを気遣り、励ましてくれました。

彼女は健康なわたしに、自分を投影していたようです。

闘病中は、元気になって沖縄に行って、わたしに会うのを目標にしていたと聞きました。

わたしより年下で、華奢で小さなサチが、どれほどの気持ちを込めて応援してくれていたのかを、その時初めて知りました。わたしは、沖縄へ行く前になぜサチに会わなかったのか、入院していると聞いて、どうして摂食障害だと気付いてあげられなかったのか・・後悔していました。今でも悔やんでいます。

その後、沖縄でとてもお世話になった人が、やはり食が原因の病気で亡くなり、わたしは細々とヘルシー弁当店を始めました。

食べる事が障害となってしまう人が、安心して適量食べられる食事を届けることに、使命感を感じていました。弁当店を始めた事はその時わたしにできる精一杯のサチへの恩返しだと思っていたので、弁当メニューに他の弁当より更に低カロリーで野菜メインの「サチ弁当」を作ったほどです。

弁当店はそれなりに繁盛しましたが、時間が経つにつれてわたしの中で「これだけでいいのかな」という気持ちが大きくなりました。安心して食べられるものを作る事と届ける事はできるけど、これだけでいいのかな・・・と。

休みの日に、摂食障害について調べたり本を読んだりしているうちに、わたしは単純に食べ物を提供するだけでは物足りなくなってきたのかもしれません。食べる事は生きる事そのものです。それを否定する心理というものに、傾倒したのかもしれません。

縁あって現在の夫と知り合い、弁当店は譲渡して上京しました。

上京してからも弁当店は始められる、とは思っていましたが、なかなか弁当店を始める気にはなれませんでした。食べる事だけでは解決しない『心の問題』を、もっと知りたくなりました。それが、わたしが心理職に踏み込んだ最大の理由です。

ある方に、何気なく「何故今の仕事を選んだのですか?」と聞かれて、ふと「罪滅ぼしのような気持ちです」と答えてから、わたしはずっとサチのことを悔いていることを改めて感じていました。自分の中では随分整理されて『きっかけはサチかもしれないけれど、心理職に興味を持ったのだろう』と理性で思っていました。でも不意打ちに訊ねられて「罪滅ぼし」という言葉が口を突いて、わたしの中のサチの大きさを思い知ったという感じです。

だからわたしは、食と心理を一緒に扱えるようなビジネススタイルを求めているのでしょう。わたしのなかで、食と心は繋がっていて、どちらも置きざりには出来ないと思っています。いつか、両方を扱える仕事をするのが、わたしの一番の夢です。わたしが心理職を目指そうと思ったきっかけは、妹のように思っていた親友のサチがきっかけでした。

サチはわたしが大阪に住んでいたころに知り合った、少し年下の可愛い女の子です。

当時のわたしはとにかくお金を稼ぎたくて、朝は駅の喫茶店、昼間は化粧品販売、夜は水商売・・と三足の草鞋。さらに休日の前日はクラブ勤めが終わった後に、朝5時まで営業しているスナックでバイトして始発で帰り、時々休日に写真モデルのバイトをするなど、働きづくめの生活をしていました。

当時、わたしは心の底ではお金しか信用できなくて、今後お金に困る事がないようにしたいと、そればかり考えていました。本心では笑わず、他人を信用せず、自分の殻を被ったまま、その殻の割れ目から周囲を見渡して、周囲から期待される自分を演出するような性格で、まったく自己一致していない状態でした。

もちろんそうなるにはそれなりの訳があって、非常に傷ついて臆病になっていたのですが。

働き過ぎて過呼吸になったり、高熱で倒れたりして、結局わたしはその後沖縄へ移住することになりました。そんな中、ひっそりと出会って親しくなったサチは、同郷で同じ大阪に住んでいて、唯一本音を明かせる同性でした。

真面目で華奢で、人懐っこくて繊細なサチ。いまでもよく思いだします。

そんな彼女が摂食障害だったことに、わたしは微塵も気付く事はありませんでした。いつもわたしの前では、良く食べて良く笑い、わたしを気遣って優しい言葉をかけてくれていたのです。サチ自身が苦しんでいた事を、最後までわたしには告げませんでした。

沖縄へ移住することを決めて、いつものようにサチに会ってそのことを話そうと連絡したら、サチは「実は入院中でして・・」と照れくさそうに言いました。どんな病気でどれくらい入院するのか訊ねましたが、結局彼女は何も答えず、わたしはそれがとても寂しく、突き放されたように感じて、結局最後に彼女と会えませんでした。

それでも時々メールをしたり電話で喋ったりで、サチとの友情は続いていました。

翌年のクリスマス、いつものように「メリークリスマス!」とサチにメールをしたら、サチのお母さんからお返事をいただき、サチがクリスマスの数日前に亡くなった事を知りました。

信じられませんでした。

泣く事も出来ませんでした。

後にサチのお宅にお伺いして、サチが長い間、摂食障害で苦しんで来た事を知りました。

サチはご両親にわたしのことをたくさん話していたようで、サチのお母さんから「出会ってから短いおつきあいなのに、こんなに親しくしていただいてありがとう」と言われ、初めてわたしも泣きました。

わたしはサチのことを、なにも知らずに親友だと思っていて、サチは自分も支えきれないほど辛いのに、いつもわたしを気遣り、励ましてくれました。

彼女は健康なわたしに、自分を投影していたようです。

闘病中は、元気になって沖縄に行って、わたしに会うのを目標にしていたと聞きました。

わたしより年下で、華奢で小さなサチが、どれほどの気持ちを込めて応援してくれていたのかを、その時初めて知りました。わたしは、沖縄へ行く前になぜサチに会わなかったのか、入院していると聞いて、どうして摂食障害だと気付いてあげられなかったのか・・後悔していました。今でも悔やんでいます。

その後、沖縄でとてもお世話になった人が、やはり食が原因の病気で亡くなり、わたしは細々とヘルシー弁当店を始めました。

食べる事が障害となってしまう人が、安心して適量食べられる食事を届けることに、使命感を感じていました。弁当店を始めた事はその時わたしにできる精一杯のサチへの恩返しだと思っていたので、弁当メニューに他の弁当より更に低カロリーで野菜メインの「サチ弁当」を作ったほどです。

弁当店はそれなりに繁盛しましたが、時間が経つにつれてわたしの中で「これだけでいいのかな」という気持ちが大きくなりました。安心して食べられるものを作る事と届ける事はできるけど、これだけでいいのかな・・・と。

休みの日に、摂食障害について調べたり本を読んだりしているうちに、わたしは単純に食べ物を提供するだけでは物足りなくなってきたのかもしれません。食べる事は生きる事そのものです。それを否定する心理というものに、傾倒したのかもしれません。

縁あって現在の夫と知り合い、弁当店は譲渡して上京しました。

上京してからも弁当店は始められる、とは思っていましたが、なかなか弁当店を始める気にはなれませんでした。食べる事だけでは解決しない『心の問題』を、もっと知りたくなりました。それが、わたしが心理職に踏み込んだ最大の理由です。

ある方に、何気なく「何故今の仕事を選んだのですか?」と聞かれて、ふと「罪滅ぼしのような気持ちです」と答えてから、わたしはずっとサチのことを悔いていることを改めて感じていました。自分の中では随分整理されて『きっかけはサチかもしれないけれど、心理職に興味を持ったのだろう』と理性で思っていました。でも不意打ちに訊ねられて「罪滅ぼし」という言葉が口を突いて、わたしの中のサチの大きさを思い知ったという感じです。

だからわたしは、食と心理を一緒に扱えるようなビジネススタイルを求めているのでしょう。わたしのなかで、食と心は繋がっていて、どちらも置きざりには出来ないと思っています。いつか、両方を扱える仕事をするのが、わたしの一番の夢です。だからわたしは、食と心理を一緒に扱えるようなビジネススタイルを求めているのでしょう。わたしのなかで、食と心は繋がっていて、どちらも置きざりには出来ないと思っています。いつか、両方を扱える仕事をするのが、わたしの一番の夢です。